DQ7を狩る!

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 お断り
はじめに言う。私はアンチDQ派ではない。むしろ、DQ信者に近く、アンチFF派でもあったりする。
これはファンの立場からした批評である。中には、間違った指摘や私の理解力の無さが露呈している部分が
あるかもしれない。しかし、これは私の想いをぶつけただけの文章であるので、批判などは一切受け付けない。
あしからず。すべてはDQへのが為。・・・そう、北○の拳のサ○ザー氏が言うように
愛故に人は哀しみ、苦しまなければならないのだから──


 主人公と仲間について

主人公と仲間について
DQ7の主人公と仲間の構成は・・・最後の時点でガキ×3、ジジイ、姉ちゃん の5人。姉ちゃんは会話が少ないし、
キャラの個性もイマイチ際立っていない。はっきりいって、キャラの存在感が薄い(キャラ萌えしない)。
しかもDQ7はパーティーに入れるのが4人まで。敵モンスターも仲間にならない。
こういうとこだけ、名作のDQ3と同じにしないでほしいものだ。そのかわりにNPCが多い。
強いし、死なないというのはいいが・・・ゲームに矛盾を感じてしまう。
とにかく、DQ7はキャラに愛着がわかないのである。

 社会的モラルのさらなる低下
勝手に他人の家にあがりこみ、タンスなどを物色する勇者たち。ハタからみれば空き巣やガサ入れと変わらない。
だが、これを否定するとほとんどのRPGが成り立たないので、あえて黙認。しかし、DQ7はちょっと違う。
ダーマ神殿の近くにあるカジノの露天商を思い浮かべてもらいたい。彼らは自分の財産を横の宝箱に
カギをかけて保管している。それを勇者たちは無慈悲に
カギを使って白昼堂々と盗みだしているのである。盗んだものをその場で売り払おうものなら
神をも恐れぬ鬼畜である。私は子供時代にDQ3で、アリアハン城の魔法の鍵で開ける宝物庫の宝を
いただいたとき、その中にいる兵士が「あえて見て見ぬふりをしよう」と言っていたように思う。
(記憶が定かではないが)幼心ながら、その言葉に少なからず罪悪感を抱いたものだ。

 自由度が高そうで、実はとんでもなく低いということ(其の壱)
DQ7は石版を集め、それを神殿にある台座にはめこみ新たな世界へと旅立つ。神殿から様々な世界へと
旅立つというのは同社のミスティック・アークというRPG ※1 と似ていると思ったが
アイデアの流用ではないと思う。仮にそうであったとしたらあまりにもお粗末すぎる
本題に入る。石版を集めて他の世界へ行くということは、言い換えれば、石版が無ければ次の世界へは
行けない
ということである。石版には種類があり、取得場所は広範囲にわたっている。しかも、ストーリーの進行に
沿った石版だけを入手するのではない。入手した石版がかなり後になって必要となる、ということがよくある。
ここで、ある世界で石版を取り忘れたときを思い出してもらいたい。今、自分たちに必要な石版がどこにあったのか
すぐに検討がつくであろうか?序盤ならまだしも、この現象は中盤以降に頻繁に起こる
しかも、過去世界がどの台座と繋がっているかは、台座に描かれた地図だけが頼りである。
目的の場所へ行こうとしても、違った場所に行ってしまうこともある。すなわち、捜索に時間がかかるということだ。
果たして、どこにあるのかも分からないものを長時間かけて探す気になれるだろうか?私はRPGを攻略情報なしに
クリアすること
が信念だった。私は挫折してしまった。しかも謎解きではない部分によって。屈辱的だった。
もし、DQ7を攻略情報なしにクリアした者がいたら、私は彼(彼女)に最大の賞賛をおくるだろう。
攻略情報なしにはクリアできないようなRPGを、私は認めるわけにはいかない。


※1 エニックスがSFCで出したRPG。出来はけっこういいのに知る人は少ない。主人公と仲間の一切喋らない
という異色の作品。しかしADV的要素もあり、謎解きはかなり面白かった。純粋なファンタジーとも言える作品で
その世界観にハマってしまったことを覚えている。
・・・エンディングはかなり糞だったが。機会があればやってみてもらいたい。

自由度が高そうで、実はとんでもなく低いということ(其の弐)
船などの乗り物。RPGにおいて、これは移動手段であるとともに、未知なる地への冒険心を駆り立てるもの
でもあると私は考えている。DQ7の場合、これらはほとんど移動手段でしかない。なぜならば、DQ7において船などが
使えるのは現実世界のみ。しかも、DQ7には島を復活させていくという目的があり、そのため行くことのできる地が
ほとんど既知である。これでは冒険心が萎えるというものだ。DQ3で(たびたびDQ3を引き合いにだすが
これは私がDQ3を最高の傑作と思っているため)船を入手した後に感じることのできた
あの無限とも思える世界の大きさを少しも体験できなかったのは寂しい限りである。

ユバールの民の存在意義
ユバールの民。それは、神の復活の儀式を行うため、その時がくるまで放浪の旅を宿命づけられた民族
という設定である。非常に長い年月、彼らは一族の教えを忠実に守っていた。
そして・・・ついに神の復活の儀式が行われ、神が復活した。
気づいているとは思うが、この神は魔王が化けたものである。つまり、ユバールの民は魔王の余興のために
辛い生活を強いられていた
わけである。この事実を知ってアイラ氏が自暴自棄にならなかったのが幸いか。
民族の存在意義を完全に否定されてしまったのだから・・・その残酷さに心が痛む。
そして、ユバールの民の中で最もこの事実に嘆き悲しむ男がいる。そう、ジャンのことである。
彼はトューラの弾き手であり、踊り子のライラを愛していた。しかし、一族の掟により結婚することは許されず
あげくの果てに合って間もないキーファにライラを取られてしまうのである。彼は一族から飛び出し
たった独りでトューラと共に、国々を流離います。後に登場する老楽師が彼のなれの果て。繰り返すが
魔王の余興のためにジャンはこのような悲しい人生を歩むことになったのである。一つだけ救われる事
があるとすれば、それは彼が過去の時代の人間であること。もし、彼がこのような事実を知ってしまったのなら
きっと憤死してしまうだろう。神=魔王というのが、安易な子供だましの演出だけでは無く
ちゃんと裏設定が考えられていたならいいのだが。

勇者の安売り、神・魔王の安っぽさ
勇者の安売りはDQ6から始まった。努力すれば畜生でも勇者になれる。職業選択の自由は当然あっていいと思う。
しかし、勇者までそれに含めてしまうのはどうか。DQにおける勇者の定義は、悪を滅ぼす英雄(ある種運命づけられた)
と私は考えている。職業選択の自由が及ばないことによって、その地位が高められているのだと思う。
そして、DQ7ではさらにその地位が低下した。上級職の1つとなり、唯一勇者だけが覚える特技というのが
ミナディン。まったく実用性に乏しい特技である。はっきり言って、アルテマソードを覚えるゴッドハンドや
げんま召喚を覚える天地雷鳴士の方が勇者よりも強い。魔王は、DQ5以降いかにも取ってつけたような奴ばかり。
勧善懲悪を成立させるための絶対悪ということ以外、存在価値がない。
威厳もない。DQ7では、それが神についても言える。ドラゴ○ボールの界○とかぶっているし(鳥山つながり?)。
あまりにも俗物化しすぎである。もっとも、DQ5においても神といえる存在のマスタードラゴンが
人間になっている隙に天空城を封印されるという失態をしているのであるが。

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